少しばかり、昔話に付き合ってもらえませんか?
あれはいつの話だったかな……。恐らく、もう10年くらい前の出来事になると思います。連日続いていた木枯らしが一段と強烈だった日のことでした。
着実に季節が秋から冬へと変わりつつあるなあ、なんてことを考えながら、私は人通りのそれほど多くはない並木通りのベンチに座って、人や車の行き交う様子を眺めながら過ごしていました。
大学の授業が終わって、特段バイトのシフトも入っていないような日の夕方は、そうやって、大学近くのベンチに座って人や車の往来を眺めるのが私のささやかな日課でした。目に入ったあの人はこのあと何をするのだろう、とか、あの車はこのあとどこへ行くのだろう、とか、そういう何気ないことを、誰にも邪魔されずに考えられる、そんな、誰にも邪魔されない、私だけの時間が好きだったんです。
普段なら、そのまま日が暮れるまで過ごしていたんですけど、その日ばかりは流石にそのままでいるわけにはいきませんでした。というのも、その日は付き合って約半年になる私の彼女、今はもう結婚して私の妻になっているんですけど、とにかく彼女が私のために夕飯を作ってくれる、なんてことを言ってくれたんです。
その当時、私が彼女と知り合ったのは約2年半前のことだったかと思います。いつものようにベンチに座って眼前の景色を眺めていた時に、たまたま私の横に腰掛けたのが彼女でした。手持ち無沙汰げに喧騒を眺める私のことが気になったんでしょうね、何をしているのかと彼女は私に尋ねてきました。その時私は眼前の光景に囚われ、彼女の存在にすら気づいていませんでしたから、突然の意識外の出来事に私は大いにビックリしてしまいました。何を言ったのかはすっかり忘れてしまいましたが、しどろもどろな答弁をまくしたてたことだけははっきりと覚えています。そんな馬鹿らしい私の様子を見ながら、彼女は口元に手をやって、なにやら恥ずかしげに笑っていました。そんな黒歴史のような出会いをきっかけに、私と彼女は段々と仲良くなって、約1半年前、私の方から彼女にお付き合いの申込みをして、彼女がその願いに応じたことで、晴れて私達は恋人同士となった、といった次第です。
彼女はとても笑顔が似合う人で、その朗らかな笑顔にはいつも癒やされているんですが、一方で彼女はまさしく典型的な読書少女、って感じで、結構物静かで内気なんですね。だから、まあ「だから」なんて事を言ってしまうとかなり偏見がましいんですが、彼女は自分から率先して意見を言うタイプではなくて、結構周囲の雰囲気に流されてしまいやすいんです。
だから、彼女が、私のために夕飯を作る、と言ってくれた時、私はとても驚きました。まさか彼女が私なんかのためにご飯を作る、なんてことを言ってくれるとは思ってなくて。ただ、どうしようもなく嬉しくて、幸せで胸がはち切れそうでした。大げさですが、もしかしたら今日が私の命日かも、なんて思ったりもしたものです。
そんな彼女のことを無碍にしてしまっては彼氏失格だと、荷物をまとめ、ゆっくりと立ち上がって彼女の家に赴こうとし、右足を地面に踏み込んだ、その瞬間のことでした。
何かが私の足元を掬いました。いや、あれは「掬った」と言うよりかは、「覆った」といったほうが正しいかもしれません。適切な表現が難しいのですが、そうですね……。何かこう、一度掴めばスルリと手元から抜け落ちるほどに捉えようがなく、しかしながらはっきりとした存在感をそこに感じ取れる、そんな曖昧な何かが私の右足全体を覆い尽くしてしまった、そんな感触を確かに覚えたんです。
体重をかけて踏み込んだ右足がそんな状況な訳ですから、当然のごとく私は大いに平衡バランスを崩してしまい、「うわあ!」なんて情けない声を上げながら、前のめりに倒れていきました。せめて前進を地面に打ち付けることだけは避けようとして、私は両腕を目一杯眼前に突き出しました。本来であれば、この時、最悪の場合でも両腕を骨折するくらいの大怪我で済んだ、そのはずでした。
しかし、そうはならなかった。私の意に反して、どうにか体を支えんとして眼前に突き出した私の両腕は、眼の前に迫りくる地面の中へと消えていってしまいました。あまりの出来事に狼狽する私を置いてけぼりにして、瞬く間に全身がどす黒い闇の中にすっぽりと収まってしまいました。
恐怖しました。悪夢でも見ているのか、そう思いました。どうにかこの悪夢から逃れたい、その一心で、頬を思いっきり引っ叩き、あちらこちらへと無我夢中で手を伸ばしました。しかし、頬はじんじんと痛み私に痛烈に現実を知らせ、伸ばした手は虚しく空を裂き、私の体は翻りながら虚空の中を孤独に落ちていきました。その事実が一層私を震え上がらせました。たまらず私は叫びました。誰とも知れず助けを求めました。しかし、何も、反響するはずの私の叫び声さえ、返ってくることはありませんでした。
どうしようもない失意、無力感を抱えたまま、次第に私の意識は途絶えてゆきました。
*
次に目を覚ました時、いつの間にか私は見知らぬコンビニの中にいることに気が付きました。左手首に巻いた腕時計は、あの時から凡そ5時間が経過していることを示していました。
馬鹿みたいにズキズキと痛む頭を右手で支えながら、私は空白の3時間に何があったのかを必死に思い出そうとしました。無意識のうちにここに迷い込んできてしまったんだろうか?そもそもここは一体どこなんだろう?暫くの間あれやこれやと思索を巡らせていましたが、結局は何の成果も得られませんでした。
このまま座っていても仕方ないからと、近くの棚にもたれかかってどうにか体を立ち上げ周囲を見回した時でした。
何かがおかしい、そう直感しました。時間帯で言えば深夜だったので、昼間よりは客足は少なくなっているのは当然ですが、店員がバックヤードで談笑しているような気配もなく、人っ子一人としてそこにいる気配はありませんでした。鬱蒼とした雰囲気がそこにはありました。背筋が凍るほどの静けさがそこにはありました。ゾワリとするような窮屈感が確かにそこにはありました。
あまりの異様さに戦慄わなないて硬直する私の真上のスピーカーから、突然「夏は来ぬ」が流れ出しました。その音声は5時の知らせのように古臭くて、何重にも重なって流れていました。ずっと聞いていると頭がおかしくなりそうでした。この世のものでは無いような気がしました。
終いにはずらりと並ぶ棚の商品がこちらを覗いているような気がして、居ても立っても居られなくなって私は一心不乱に駆け出しました。このコンビニから逃げれば、少なくともこの地獄からは抜け出せるだろう、そんなことを思いながら私はコンビニの自動ドアから飛び出しました。
でも現実はそんなに甘くはなかった。眼前に広がるのは、それはもう完全な真っ暗闇でした。
全く持って訳が分かりませんでした。私は何をしでかしたのか?ろくな理由も思いつかないにも関わらず勝手に自分を責め、一人崩れ落ちて、嗚咽し、慟哭しました。あと一歩で胃がひっくり返ってしまう程に。ぐちゃぐちゃになって、喉に絡んだ鼻水がたまらなく嫌でした。
言葉通りに一寸先は闇でしたが、確かにそこには地面がありました。果てしなく広がっているようにも思えました。やろうと思えば、力の及ぶ限り、どこまでも闇の中を歩き続けることさえ恐らくはできたでしょう。でも、臆病な私には其れをするだけの勇気がなかった。あれほど悶え苦しみ、地獄とも思えたコンビニを手放し、右も左もわからない彷徨に一人身を委ねることは、あの時の私にはどうしても無理でした。
暫くして気持ちも落ち着いてきた頃、やれる限りのことはやろうと、私は先ずこのコンビニについて、余す所なく調べることにしました。結果、目を離せば商品が補填されていること、トイレは使用できることを知りました。
一段落して、私は外部との連絡が取れないか見てみることにしました。スマホの電話機能は使い物になりませんでしたが、幸いインターネットには繋がったので、私はこの場所がどういう所なのか調べてみることにしました。しかし、現実世界とそっくりな異空間というのは都市伝説の類では全く珍しい話ではありませんから、調べた所で甲斐がないのは火を見るより明らかな話でした。
ただ、僅かでもいいから使えそうな情報がないか、そんな一縷の望みを持ってネットの海を漁った結果、一つだけ、今の状況に関係がありそうな話題を見つけました。
「The Backrooms」。ある日突然、現実からはずれ落ち、奇妙な空間に足を踏み入れることになってしまう。そんな都市伝説がありました。私がこのコンビニに迷い込む前、ベンチから立ち上がった直後の状況は、その都市伝説の「外れ落ち」の挙動にとても似ていました。
都市伝説によれば、「外れ落ち」やその他様々な方法を介して、異なる空間を移動することができる。ともすると、現実世界に帰ることができるかも知れない。そう書いてありました。
もしもこの世界がその都市伝説そのものならば。いろいろ試していけば、そのうちこのコンビニから完全に脱出することができるかも知れない。幸い生理問題については問題ないことは分かっている。その時が来るまで、少しの辛抱だ。そう思うと、少し気が楽になりました。とりあえずは頑張ってみよう、そう思えました。
まあ、スマホの充電が切れたのはその数時間後でしたが。
*
あれからどれくらいの時間がたったでしょうか。スマホの充電は疾うの昔になくなり、右手首に巻いていた腕時計はいつの間にか動かなくなり、この世界にきて何年が経過したのかはもはや分かりませんでした。トイレの鏡には、色褪せた服を着、無精髭を生やした汚らしい男がこちらを見ていました。
結論から言えば、失敗しました。色々な壁や床に体を打ちつけ、通り抜けられる場所がないか探りました。恐怖で竦む両足に鞭を打って、コンビニが目に映る範疇で闇の中を模索しもしました。トイレの扉なんかは、何千回開閉したかも覚えていません。
でも、それらは尽く徒労に終わりました。所詮は都市伝説、信憑性など端から無いことは分かっていたはずなのに。あの時の希望を胸に秘めた自分がバカバカしく、ひどく憎たらしく思えました。絶望に打ちひしがれて、何度目かもわからない涙をこぼしました。
相も変わらず流れる「夏は来ぬ」が、惨めな私を笑っているかのようでした。
もはや私には生きようと藻掻く意志は残されていませんでした。あれほど愛した彼女の姿も、今やその輪郭がぼやけるほどに曖昧で、顔などはまるで別人のように思えました。あれだけ頑張ったんだ。もう十分だ。私は勝てなかった。私は負けた。諦念が、頭の中を渦巻きました。
せめて死ぬのなら、こんなクソみたいなコンビニじゃなくて、あの暗闇の中でみすぼらしく。そう思って、生気のない、重苦しい体をどうにか持ち上げ、コンビニから出た、その時でした。
雪。雪が、降っていました。あの何にもなかった暗闇の空から、雪が、降っていました。
私は吃驚しました。何しろ、この世界に迷い込んで数年、或いは数十年来、雪などというものは一度たりとて見なかったのですから当然のことです。
思わず立ち止まって、私はその雪に見惚れました。次第に地面を白く覆う雪を眺めている時、私の疲れ切った頭に、ある一つの記憶が鮮明に蘇ってきました。
あれは、確か付き合って半年くらいの、ある冬の日のことでした。世間はすっかりクリスマス仕様になっていました。
私と彼女は、デートの序でに、大学の広場、その中央に作り上げられたクリスマスツリーを一目見ようと訪れていました。いつもは質素として、まじまじと見る意味もないような大木でしたが、今宵の其れは、それはそれは美しいものでした。
見惚れる私の隣で、彼女が呟きました。とても綺麗、と。
私は、綺麗だね、と答え、その後に、君と同じくらい、と続けました。
何を言っているんだと咄嗟に恥ずかしくなり、思わず顔をそらしました。恐る恐る彼女の方を振り向くと、彼女もまた恥ずかしそうにしていました。瞬間、二人でたくさん笑い合いました。
その時の彼女の笑顔は、何にも代えがたい、いわば宝石のようでした。
たまらず私は駆け出しました。衣服なんぞは邪魔だから脱ぎ捨てました。降りかかる雪すべてを全身で受け止めたいと、心底願いました。生きる力など毛頭なく、すっかり枯れ果てた私の心には、それらはあまりにも劇毒でした。それ程までに、私の心は酷く焦がれてしまっていました。
地面の雪を踏み込めず、私は雪の中になだれ込みました。体を覆う雪はあまりに熱く、火傷しそうでした。それらを可能な限りかき集め、胸の中で抱きしめました。
無論、分かっていました。この雪が現実のものか怪しいことくらいは。あの時の雪では全く無いことくらいは。はたから見れば、汚い男が一人で雪遊びをしている。なんと滑稽な光景でしょう。
でも、そうはいっても、やはりそれでも、その造花の温もりは、たまらなく、どうしようもなく、
心地よいものでした。
*
どれくらいの間眠っていたでしょうか。肌にカサついた感触を覚え、目が覚めました。
その時、眼の前に映った光景を、私は当初信じることができませんでした。何しろ、その光景は、私が何かに足を取られる、まさにその時の光景でしたから。私の容姿も、あの時の姿、そのまんまでした。
正直私は神とかそういう胡散臭い話は信じないタチなんですが、あの時ばかりは流石に神の存在を信じずにはいられませんでしたね。
私はこの二度と無いような奇跡を噛み締めながら、彼女の下へと一心不乱に走ってゆきました。
*
今となっては、結局あの出来事、あの場所が何だったのかは分かりません。もしかしたら、気の遠くなるほどに長ったらしくて、非常に悪趣味な夢だったかもしれません。けれども、あの時私がこの手のひらに掬った雪の温もりが、未だ頭にこびりついて離れないのは確かです。

