Level 165 N

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危険度: 2
空間信頼性: 不明
実体信頼性: 混雑
情報提供待ち

Level 165 N は、バックルームにおける 165 N 番目の階層である。

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Level 165 N の写真。


概要

Level 165 N は、紫がかった夕暮れの夏空の下、コンクリート造の公共団地や他さまざまなビル群が向こう岸に立ち並んだ河川敷が、一見すると無限に複製されていてどこまでも続いているようにみえる、道路状の空間である。そして、この階層に外れ落ちた時点で、階層内のあらゆる時間とともに動くあらゆるものは完全に静止しているようである。気温は28℃前後もあるが、少し乾燥してカラッとした気候で、実測値の割には少し涼しく感じられる。

やはり、特筆すべきは、この階層は一切の無風であり、階層内を取り巻く雲、草木、空を飛ぶ鳥、野良猫、そして自動車──あなた以外のすべてのものが、微動だにせず静止していることであろう。河川の流れすらも止まっているため、川の上流と下流を判別することはできず、そこに方角の概念もなくただただ同じ空間が広がっているだけという印象が与えられる。ここではそよ風も一切吹かず、河川敷に生えたススキは風にそよぐようにしなやかに折れ曲がった状態でびたりと動かない。蝶々やセミといった小さな虫からあなた以外の人間を含む大きな生物までもが完全に、今にも動き出しそうな姿勢で停止している。河川敷でソフトテニスを遊ぶ子どもたちのボールが宙に浮き上がり、そのまま空中で静止している様を、力の弱い街灯が薄明るく照らしているような光景が、歩いている限り延々と続く。

Level 165 N は総じて資源が多いとはいえない階層である。階層内でびたりと動かない昆虫や動物は食べられなくもないが、おそらくは火を起こして調理するなど複雑な手順を要するだろう。ここから資源を得る代表的な方法は、河川敷から降りて市街地の方向へ進み、ここではない場所へ移動することである。あなたがこの河川敷に立っているとき、例外なくあなた自身はひとりでそこに居るだろう。複数人で到達できたと認識できた場合はなんらかの異常である。あなたはこの場所に、一人で立っているという事実を忘れないように。そして、この階層の河川敷にある駐輪場で鍵のかかっていない自転車を見かけることがあるが、これに跨って移動しようとした者は全員著しく体力を消耗した状態で別の階層に外れ落ちたという報告がある。この点を留意して、この階層から脱出したい場合は、可能な限り自転車を使わない手段を選ぶべきである。


自転車

河川敷の端に、屋根すらなくアスファルトに白線が引かれているのみの、質素な構造の駐輪場を見かけることがある。そこには、持ちやすいようにハンドルの折れ曲がった、カゴや荷台が付いている自転車が複数台止められている。それらは、チェーンによるツーロックがされていないどころか、普通の鍵も刺さりっぱなしになっているような、ずさんな管理状況であることがほとんどである。完全に停止した線香花火で遊ぶ子どもたちが駐輪場に座り込んでいることが多く、自転車を利用する場合はそれらにぶつからないように苦心しながらハンドルとサドルを握ってゆっくりとどかすことになる。




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河川敷を見下ろした写真。


その駐輪場から自転車を引き出して、河川敷の道路の真ん中でペダルを踏み込めば、そのとき──その車輪が回転し始めるのに連動し、この河川敷で停止していた雲が、虫が、猫が、子どもたちが、草むらのなびきが、そのすべてが一堂に、止まっていた時間を取り戻すかのように動き出すのである。

空間全体が少しずつ躍動しだすと同時に、今までは完全に停止していた風が吹き出すようである。それは、強い風である。映写機を進めていくように、ポラロイドのフィルムを消費していくように、この階層の時間の流れは完全に自転車のタイヤの回転と連動しているようにみえる。このとき、あなたが河川敷を自転車で漕ぎはじめる方向から追い風になるように風を受けたように感じられることが多い。突然に髪が崩れたり、衣服がなびきだすこともあるだろう。心地よい追い風は湿り気を吹き飛ばすかのように快活に吹き続け、自転車のペダルの抵抗をより重くする。さらに、ゆっくりと力を込めてペダルを踏みこんでいく。

あなたが銀色の自転車に乗って空間内を少しずつ勢いづけて漕ぎ続ければ、空間内の時間は完全に正しく回り始める。木々にしがみついたアブラゼミはじりじりと擦り合わせるような鳴き声を発し、それに伴い河原の小さな公園でドッヂボールやテニスをする子どもたちの話し声も響きだす。伴って空間全体の気候もより蒸し暑くなり、湿っぽくなるが、強い追い風が吹いているのでむしろ心地よく感じられる。向こう岸を自動車が激しく行き交うところがみえる。同じように向こう岸の公共団地の壁に描かれた建物の番号もひとつずつ増えていく。野良猫が時折、目の前の道路を横切ることすらもある。それに気づいたあなたがゆっくりとブレーキをかければ、その猫も空間全体もたちまち静止してしまうのではないかという空想がよぎる。そんなことしたくはないと思い、うまく野良猫を交わして、さらに上流に向かって傾斜のある道を進むのだろう。

河川敷の道は徐々に登り坂の方面へと向かっていき、それに伴いどんどんと蒸し暑さも増していく。空模様はどこまでも晴れやかであるのに、わずかに、後ろの方から遠雷が鳴っている。ペダルを踏む脚も、背負っているものもどんどん重たく感じられる。汗で濡れたワイシャツは体へとへばりつき、前へ進むいっそうの抵抗力となる。それでも、さらに前へ前へと両足を漕ぎだして力強くペダルを踏みこみ、進めていく。それに呼応するようにススキの草原がなびき、カラスが鳴き、下を向いて花火を眺める子どもたちが大きな声を出す。向こう岸に向かって夕陽がゆっくりと降りていき、わずかに団地の集合に覆いかぶさっていくところがみえる。

あなたは銀色の自転車に乗って空間内を立ち漕ぎで駆けている。雷の音が鳴り響いたときに覚えた悪い予感は徐々に正しいものになっていく。空が晴天であるのにも関わらず、突然ぱらぱらと雨音が鳴り出し、それは瞬く間にバケツをひっくり返したかのような激しい雷雨へと変遷していく。嫌な予感を勘づいたのか低空を飛行していたカラスはいつのまにか消え失せ、子どもたちも散らばってそれぞれの家へと帰っていく。篠突く雨の中で街灯のあかりを除いてどこまでも見えるものがなく、せめて屋根の下に入ってこの雨を凌ぎたいと思えども、病院まで間に合うかが心配でしかたなく結局のところより速く強く自転車を漕いでいくことしか考えられない。背負っているものの重さがより一層増し、後ろから川が氾濫するようすを不安げに眺めている虚ろな目が視界の端に映る。

にわか雨が降り出す中、よりいっそう湿気が強く蒸し暑い気候に感じられるようになる。一方で後ろで鳴っている心拍が少しずつ遅くなっていき、指先が冷たくなっているような気がして、もう少し急がなければ、強く漕ぎ進めていかなければと思い、さらに踏み込んでいく。激しい雨のあまり河川敷の堤防全域が薄く雨水の流れに覆われたようになり、地面に落ちたタバコの吸い殻やそのほかの塵芥は洗い流されていく。もはや堤防にもテニスコートにも、誰もいない。ここには、二人だけしかいない。

私はもう、銀色の自転車を立ち漕ぎし続けることをやめられなくなっている。よかったねと笑い合っていた表情は突如苦虫を噛み潰したかのように歪み、肩にしがみつく力はより弱くなる。今なら、どのような大いなる運命がこれから課せられようと、受け入れられそうな全能感に苛まれる。それから自転車で滑走しながらもふと後ろを振り向き、大まかに取り留めのないことを語らい、ぐったりとした目を見つめ、頬と頬が触れる。私たちがふたつでひとつの絵画になってしまったかのような後戻りできない感覚がより喉の奥を苦くする。それはつらつらと衒学的な屁理屈でもなく、哲学的な問いでもない。私たちはそう感じるからここにいるだけ。ここにいる。

少しずつか細くなっていく心拍と、肩にしがみつく力ない腕、腕から腕へと伝う汗を気にかけて、ハンドルを握りしめて、さらに河川敷を進んでいく。最後まで安静にしていることを願うばかりだ。空は、ほとんど夜になろうとしている頃である。日常が消えてゆく。自転車にはふたり分の荷重がかかっている。わずかに、遠くに病院の灯りがみえる。

2019年の夏である。

しかし、突然に暗く日が落ちていった空が微かに明るくなり、それから階層全体を滝のように満たしていた雨音が退いていき、これから通り雨が止んでいくことがわかる。さらに下を向いて懸命に進んでいく中で、辺りに響く己の声すらもかき消すような雨は嘘のように消えた。雨に洗い流されて虫ひとついなくなってしまったこの河川敷では川の荒れる音と、カラカラと弾かれる自転車のチェーンが廻る音のみが鳴っていて、そのほかは一切の無音である。空はそろそろ星が見えそうな、わずかに紫がかった灰色に満たされている。大丈夫、もうすぐ着くはずである。少しばかり上を見やって、それからもひたすらに自転車を漕いでいく。

さらに自転車を漕いでいけば、日はもう完全に落ちていってしまう。この頃にもなると少しずつ脚の疲れていく感覚を覚え、自然と速度を緩めていくこととなる。雨の上がった河川敷では、露を帯びた草葉の陰からどこからかやってきたマツムシやコオロギの鳴く音が聴こえている。堤防の周囲は街灯の灯りで照らされている箇所を除いて、ほとんど何も見えなくなっている。対岸にびっしりと並んでいた団地も途切れていて、代わりにあまり整備されていない様子の竹林が広がっている。いつのまにか数粒の星が夜空に浮かんでいる。進行方向には大きな林があり、山のある方角までずいぶんと登ってきたようである。目算で6キロメートルほどは走り抜けていたであろう河川敷の道路がこのあたりで立ち入り禁止となっており、目の前の下り坂を左手に降りて住宅街へ入っていき合流することとなる。振り返れば、今まで自転車で走ってきた堤防沿いの道がどこまでも続いてみえる。ブレーキをしっかりと握りしめて、この空間の暗い街中へとゆっくりと踏み入っていくこととなる。

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この階層の団地の写真。



この階層の街中を自転車をたった一人で漕いでいるとき、もう周囲は完全に夜になってしまっている。街中は先ほど河川敷の対岸で見かけたものよりも背を低くした団地と、その狭間に地域の公園や精米所などが点在する様子である。街のなかに点在している疲れたような人々は涙でぼやけたかのようにその輪郭が曖昧で、その話し声も大勢が同時にひそひそと喋っているかのように聴き取りづらく、誰もが電話などをしていてこちらへ反応も示さないために意思疎通は不可能である。

先ほどの叩きつけるような雨でアスファルトの道路はぼんやりと濡れており、街灯の光が反射して粒状にきらめいている。夜空にはわずかに大三角が見え、そのほかにもいくつか小さな星が光っていることが確認できる。ところどころ、電信柱の下に大きな水溜まりがみえる。Level 165 N の河川敷の終端が後ろを振り返れば遠く見える頃、やがて誰もが一様に、ついに自転車を漕ぎ疲れて、Level 165 N の自転車をその場で降りて、両手でハンドルを引きながら町中を歩きだす。そのとき、自分がその場でひと時静止するために階層内の音が一切鳴らなくなるが、再び自分が自転車とともに歩き出せば周囲の時間は再び廻りだし、ぽつぽつと行き交う人々は動きだし、小さな虫の声も響きはじめる。

Level 165 N の静まり返った夜中の街を一人でしばらく自転車を引いて歩いていると、段々と周囲を照らす電灯が少なくなっていき、顔の薄い人々も完全に誰一人居なくなり、ほとんど自転車のチェーンの金属音と、虫の声しか聴こえなくなってしまう。その頃には団地やその他の店舗も見かけられず周囲はほとんど民家と空き地だけになっており、いつのまにか自分は引いていた自転車ごと Level 34 N の街中に外れ落ち、乗り上げて移動していたということに気づく。


備考


Level 165 N の自転車に乗ってしまえば、ほとんど例外なく河川敷の端から端まで自転車を漕ぎ続けて、非常に疲弊した状態で別階層に外れ落ちることが知られている。このような行動は、なんらかの精神影響からもたらされている説が有力である。また、自転車に一度も乗らずしてこの河川敷の終端やその先の団地へ辿り着いたという報告もなく、この階層の空間構造それ自体についても不明な点が多い。この階層の自転車に関する報告のすべては、そのひと時を鮮明に思い出しているかのような抒情的な語り口で、一様な体験として語られていて、そして同じように一直線に Level 34 N まで自転車で駆け抜けているものだった。

なお、その言及にてこの空間内の "病院" についての示唆が含まれることがあるが、そこに辿り着いたという報告は未だになされていない。


入口と出口

階層への入り方

  • Level 575 N の交差点で歩道橋を渡り終えたときに突如床が抜けたかのように視界が暗転し、その後 Level 165 N の河川敷で鮮やかな紫色の空を見上げながら立っていることがある。
  • Level 36 N の整備された芝生を彷徨っていて、霧が突然に晴れたときに、Level 165 N で完全に静止して花火を眺めている子どもたちに囲まれていることがある。

階層からの出方

  • Level 165 N の河川敷から石畳の階段を降りていき、しばらく街中を彷徨っていると、気づいたら Level 534 N の深夜の公園で一人ブランコを漕いでいる。
  • Level 165 N の静まり返った夜中の街を一人でしばらく自転車を引いて歩いていると、いつの間にか周囲を照らす電灯が少なくなっており、顔の薄い人々も完全に誰一人いなくなっている。その頃には団地やその他の店舗も見かけられず周囲はほとんど民家と空き地だけになっており、引いていた自転車ごと Level 34 N の街中に外れ落ち、乗り上げて移動していることに気づく。






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