少しの別れ

評価: +14+x
blank.png

元の世界では、いわゆるブラック企業だとか言われる会社に勤めていた。同じ日々、同じ疲労の繰り返しにうんざりしていた私は退職届を入れたカバンを提げながら、いつの間にかふらふらと山手線のホームから線路に転び落ちていて、それに気づいた頃には電車は目前にまで迫っていた。

これが、私に残る最も古い記憶であって、それ以前の記憶はあの黄色い壁と聞き飽きた蛍光灯の唸り、果てしない景色とで、これもまた古くに塗りつぶされてしまっていた。

最近といえば、しばらく歩いては、外れ落ちる。また、外れ落ちる。日々の繰り返しだとか、疲労の繰り返しだとかは、現実から追い出された私をなおも逃がそうとしないらしい。そのせいか、頭はなんだかはっきりしない。ただ、常に、気の滅入るほど長い時間一人きりであるということは、私の気分が気持ちの悪いほどよく静まって、嫌に落ち着いた気分を与えた。ずっと前からのことである。

ここを歩くときは、そこが危険な空間である場合を除いて、基本的にぼーっと、何も考えず、ただどこから聞こえてくるのかもわからない環境音に耳を傾けながら歩くことがほとんどであった。それはやはり静かでそれでいて退屈であり──私はよくその心の中に生まれた退屈を自然と悲しい考えで埋めてしまう癖がある。脱出の可能性、元の世界について……そういう考えは、私がこれから話す階層に辿り着いたとき、そこにいる間生まれることはなかった。


markup_1000001046.jpg

ある日、また他の階層に外れ落ちた。それは確かに「また」であったが、私はそこが普段訪れる場所と何かが違うと感じ取ることができた。そこは無人で、割に静かなオフィスのような場所だった。少し進むと低い壁で仕切られたデスクが、薄暗がりの中にしばらく並んでいる。一つを除いてモニターは起動しておらず、除いた一つのモニターの画面を覗くと、どうやらデータ入力の最中のようだ。私はそれをすぐ理解するとともに、階層の光景に強い既視感を覚えた。

おかしな話である。初めて訪れる階層だが、何かが違うということも、モニターに映るものはデータ入力の最中であることも、知らないはずのことをすぐに理解している。その違和感と、気味の悪さに、私の心は、怖いもの見たさにも似た好奇心で埋め尽くされた。

それらに従って、私はしばらくこの階層を歩いてみた。分かったことといえば、ここには窓があって、外は見慣れとも忘れた東京の夜景であるということくらいであった。少し傾いた椅子やら、微かに揺れ動く換気扇やらがただ続く、特に変わり映えのない景色に、どこか残念な心持ちになった。

けれど、その残念さ自体に、私は覚えがあった。変わり映えないという言葉が、なぜか適した状況であった。何かを期待していたわけではない。ただ、なぜか見慣れた景色を眺めながら、自分がここで何をしていたのかを、思い出しかけていた。ふと、ここは初めて訪れる場所ではないという考えが心に浮かんだ。初めは自身の感覚を疑ったが、後に確信へと変わった。


しばらく歩いた後、少し開けた場所に着いた。椅子と机がいくつか並んでいる。休憩室か何かなのか。湿気た空気の中、私は観葉植物の脇にあった椅子に腰を下ろして、これからどうしようかと考えていた。しばらく考えたが、特に結論が出る様子もない。というか、この空間において先のことを考えるのは、私にとってかなり久しぶりだった。

The_break_room_%283817585873%29.jpg

一つため息をついてから、もう少し歩こうと思い足に力を込めた時、軋む椅子の音と重なって後ろから誰かの声が聞こえた。「おい」、だったと思う。あまりはっきりした声ではなかった。加えて、このあまりにも静かな世界で、自分以外の声を聞くということに驚いていた。

振り返るとそこには男が立っていて、この男もまた私と同じか、それ以上に驚いた顔をしていた。男は大きな足音を響かせながら足早に近寄ってきて、両手で私の肩を揺さぶり、何度も私が私であるか強い言葉で確認している様子だ。その下品な口調と、乱暴な手使いに私は覚えがあった。黒木雅也、37歳。私が勤めていた会社の上司である。

この男が、私の上司であることを、いや、私の上司の形をしていることを理解すると、このオフィスのような空間も勤めていた会社のものであることを曖昧だがやっと思い出した。妙に埃っぽい空気とか、記憶に近しいものがある。そうなると、この男と、私以外に人の気配がしないということは余計に気にかかった。が、それがどうということもなく、特に帰ろうとかとは思わなかった。

そんな事を考えているうちに、男は立ち上がった私を手招きし、座れと言わんばかりに机から椅子を二つ引き出して、気づかぬうちにその一つに座っていた。私はしばらくカーペットの上に突っ立ったままだった。


断ることができなかった。断れる状況ではなかった、という方が適当かもしれない。私は男と向かい合うようにテーブルを挟んで椅子にもう一度座り、男の話を聞いていた。私が消えてから、自分の仕事が増えて大変だとか、警察沙汰になっただとか、大体そんなことを言っていた。

不思議なことに、男に怒っている様子は見られなかった。姿も声も、私の覚える上司そのものであったが、どうしてか数年も姿を消していたはずなのに、そのことを責める様子はなかった。どうしても引っかかってしまい、私は聞いた。

「怒らないんですか。」

小さい声で言ったが、聞こえたらしい。男は少し固まってから口を開くと、そのままもうずいぶん時間は経ったと、会社の人間も、私のことはもうほとんど忘れたか、覚えている人はとうに辞めたかだと、そう言った。一瞬だけ換気扇の空回りする音が大きく聞こえた。私は、ひどくいたたまれない気持ちになった。

男は立ち上がってコーヒーメーカーまで歩いた後、少ししてコーヒーの入ったカップを二つ持ってきて、その後もしばらく会社の話を続けた。私が使っていたデスクは、結局新しい人間が使うことはなかったということ。給湯室の、何度も買い替えの話が出ていたコーヒーメーカーがようやく新しくなったこと。錆びついて動かすたびに嫌な音を立てた、ドアの蝶番についてのこと。そんな話を、男はしばらく続けた。

どれも、どうでもいい話だった。しかし、どうでもいいはずのそれらを聞くことに、慣れ親しんだ退屈が訪れることはなく、私は頭の奥がゆっくり痺れていくような感覚を覚えていた。落ち着こうと、コーヒーを一口飲む。馴染みある味がした。階層内のコーヒーメーカーは、古いままらしい。日の光が窓から差し込んできた。私は、眩しさに少し目を細めた。


外が昼時に見える頃、私が腹の減ったことを察してか、男は私を食堂に誘った。もしかして男も腹が減るのだろうかと考えると、私は不思議と親近感のようなものを男に感じた。何かを求めているということは、それだけで人間らしく、私を安心させた。

そういった男への根拠のない信頼に従い、私は黙って男の後を追って食堂へ向かった。食堂は三階にあり、ここから二つ下にある。続く螺旋階段を手すりに手をかけながらさっさと駆け下りる。男の足は妙に早い。私は、追いかけるのに必死だったのだ。

食堂は、昼の太陽に照らされていて明るかった。ただ昼休みには少し早かったようで、机は綺麗に並んでいる。シャッターが閉まったカウンターの先から微かにカレーのような、香ばしい香りが漂ってくる。

男は私に、適当に座って待っていろとだけ言って、カウンターの方へ向かっていった。男を少し目で追った後、私は椅子に座った。久しぶりに一人になると、私は目のやり場に困ってしまって、しばらく机についた黒い汚れを眺めて男を待った。

Lemon_Bay_High_School_Champ%27s_Cafe_2%20%281%29.jpg

しばらくして、男が戻ってきた。男の両手には停止したウォーターサーバーから取ってきたであろう、水の入った紙コップが二つ握られていた。何か食べられるのかと期待していたが、こんな調子じゃがっかりだ。ただ、私に何か言う勇気はなかった。水を一口飲んでみると、少し甘じょっぱい味がする。もう飲むことはなかった。

男は私のちょうど隣の椅子に座って、私にこっちはどうだったか、と聞いた。何がどうだったか聞いているのか分からなかったが、とりあえず、

「大変でした。」

と言ってみた。ここに来てから、経験したこと全てに共通することであったからだ。男は納得したように頷いて、これだけ見なかったのだから、きっとそうだったはず、ということを言った。それと、男は変に広いところとかは大変だったろう、とかいろいろなことを聞いてきた。

それはあまりに具体的であって、私は少し驚いた表情をしていた。男は付け加えるように、噂でそういうことを聞いたことがあると話した。そう言われてみれば納得できる話だったが、誰から聞いたのかは話さなかったし、どうしてもそうは思えなかった。私は、何も言えず了承した。考えてみれば、人間以外も腹は減るだろう。


少しの沈黙の後、男は何度目か分からない話をやっと終えた様子で、紙コップの底に残った水を飲み干し、少し歩こうと言って立ち上がった。私もそれに倣った。紙コップは机に置きっぱなしでいいらしい。それも、私は男に合わせ一口だけ口をつけた紙コップを置き去りにした。

私たちは食堂を出て、やはり人気のない廊下を歩いた。窓の外の東京の景色は、いつの間にか橙色に染まっていた。それに、行場のない懐かしさを感じている間、男は途切れることなく話し続けた。それを聞くことは、もうそろそろ飽き飽きしてきて、退屈に感じてきたころだ。

「これから、どうするつもりですか。」

どうして聞いたか分からない。何か言わなければならないと思ったか、どうしても、先のことが思い浮かばないからか。だから男に聞いたのだろう。ただ、男はわからない、どうもしないとはぐらかしてばかりだった。

そうですか、と返事をした後、また沈黙が訪れた。端が黒ずんだ壁だの、湿気た感触のカーペットだのに目を忙しなく動かしながら、次の行動を考えていると、男は、私はどうするつもりなのかということを聞いてきた。

私はしばらく何も言えなかったが、結局男と同じように、わからないと言った。男は頷いた後、結婚していたかもしれないとか、いい具合に出世していたかもしれないとか、窓際じゃない席になったかもしれないとか、そんなふうなことを、つらつらと並べ始めた。最後にはもう関係のないことだと切り捨てたが。

私もそう思っていた。

ただ、その時窓に映った自分の姿が、まだ会社員らしい白いワイシャツのままであることに気づいて、私は少しだけ居心地の悪さを覚えた。


しばらく黙って歩き続けた。男はまだ何か話していた気がする。ただ、内容は何も頭に残っていない。気づけば、窓の外はもうすっかり暗くなっていて、私の目にはビルや街頭の光ばかりが入った。エレベーターの前に着いた時、男は足を止め、もう行くのか、と聞いてきた。連れてきたのはそっちだろうという言葉を飲み込んで、

「ええ、まぁ。」

とだけ答えた。ここに残ることと、またどこかへ外れ落ちることの違いを、私はもうあまり考えないようになっていた。男は頷いてエレベーターのボタンを押した後、今度来た時は、もう少しましなものを用意すると、独り言みたいに言った。私は少し遅れて、それに頷いた。

その時、私は視界の端が揺れ動くような感じがして、その後すぐ気を失ったように体の力が抜けた。視界が徐々に暗くなる。意識が飛ぶ直前、男がエレベーターに乗る様子が見えた。何か言わなければならない気がした。ただ、その頃にはもう、何について話していたのかさえ曖昧になり始めていた。

目が覚めた時、はじめに黄ばんだ壁が目に入った。胃に僅かに残る甘じょっぱい水を聞き慣れた蛍光灯の唸りに押し出されるように口から吐き出した後、壁にもたれて腰を下ろす。少し落ち着いてから、私は立ち上がって歩き始めた。

結局のところ、嫌なことを思い出してしまったと感じた。男との出会いは、私の現状をより退屈に、寂しくさせた。ぼんやりと孤独が頭に浮かぶことを奥へ奥へと押し戻していく。先のことは、もうしばらく思いつきそうにない。

ある階層では、夜から翌日の日暮にかけてのことである。

IMG_0050.jpeg

特に明記しない限り、このページのコンテンツは次のライセンスの下にあります: Creative Commons Attribution-ShareAlike 3.0 License